犬山城について

犬山城の概要
(別名 白帝城 尾張徳川家付家老成瀬氏居城)
犬山城古絵図犬山御城下之絵図(部分)
 元文5年(1740)
 犬山城は木曽川南岸標高約40メートルの崖の上にそびえ、天守は全国の現存するもののなかで最も古いとされています。地形的にみると、丘陵と周囲の平地をあわせた「平山城」ですが、天守の背後の木曽川が自然の要害となっているのが見て取れます。
 犬山城は天文初め頃、織田与次郎信康によって創建されたとされていますが、以後、とくに木曽川を押さえる、軍事上・経済上・交通上の重要な拠点として重きをなしてきました。


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■天守の構造(概略)
天守閣正面図 天守閣断面図
天守閣正面図 天守閣断面図
天守の高さ 約24メートル(内石垣の高さ 約5メートル)
3重4階(及び地下2階:石垣中)南面に付櫓がつく
1階:上段の間・武者隠しの間・納戸の間
城主の居間とされ、床が高く畳が敷き詰められ、床・違い棚が設けられた書院造りの間です。これは、江戸時代(文化年間)の改造と考えられています。その北は、万一を警護する武士の詰所となっており、東は、納戸の間が配されています。それらをとりまいて武者走りの板の間があります。
2階:武具の間
中央が武具の間で、西北東の三方に武具棚が備えられています。
3階:破風の間
唐破風は、元和〜貞享の七十余年の間に、成瀬氏により増築されたといわれます。南北に唐破風、東西に千鳥羽破風が設けられています。
4階:高欄の間
回廊は、成瀬氏による増築とされ、高欄と廻縁がまわる望楼となっています。
■城主一覧
元和3年(1617)以後尾張藩付家老成瀬家が城主となるまでの犬山城城主一覧は次のとおりです。
(城主・城代名) (年 代) (参 考)
織田与次郎信康 天文6-
天文16
・木の下より現在地に城郭設定する。
・稲葉山(斉藤道三)攻めで戦死する。
織田十郎左衛門信清 天文16-
永禄7
・信康の4男 織田信長従弟で、連合で勢力を強化していたが、後に信長に犬山を襲われ甲州へ逃れる。
池田勝三郎信輝(恒興) 元亀元年-
天正9
・信長の家臣。桶狭間の戦いで戦功あり。後に、尼ケ崎城へ移る。
織田源三郎信房 天正9-
天正10
・信長の5男で、池田恒興の娘婿。本能寺変で父に殉ずる。
中川勘右衛門定成 天正10-
天正12
・信長次男信雄の家臣で、豊臣秀吉家臣池田恒興に攻められ戦死する。
池田紀伊守信輝入道勝入(恒興) 天正12 ・小牧・長久手の戦いで戦死する。
・秀吉、犬山城に入城する。
加藤作内丞泰景 天正12 ・秀吉の家臣。小牧・長久手の戦いがこう着状態となり秀吉一時還軍で番手となる。
武田五郎三郎清利 天正12-
天正15
・小牧・長久手合戦後、秀吉より信長次男織田信雄に城が返却され、信雄の家臣武田が城主となる。
土方勘右衛門雄良 天正15-
天正18
・信雄の家臣。
・後に、信雄が秀吉により配流される。
長尾武蔵守吉房 天正18-
文禄元
・秀吉養子秀次が遺領を与えられ、秀次の実父長尾が城主となる。
三輪出羽守五郎右衛門 文禄元年-
文禄4
・秀次の家臣。
・秀次、秀吉と不和になり自刃する。
石川備前守光吉
(1万2千石)
文禄4-
慶長5
・秀吉の家臣。木曽谷代官を兼務する。
・関ケ原の合戦で西軍にくみし、退城。
小笠原和泉守吉次
(2万7千石)
慶長6-
慶長12
・徳川家康4男松平忠吉の家臣。
平岩主計頭親吉
(9万3千石)
慶長12-
慶長17
・家康9男徳川義直(尾張藩主)の家臣。
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犬山城主成瀬家
成瀬家の先祖は・・・
 さかのぼると藤原鎌足の子孫である関白二条良基といわれます。良基が、諸国流浪中に今の足助の里に一時住み、子を設けました。この子が後に成瀬郷に住みつき、その里の名をとって成瀬と名乗ったといわれます。
犬山城の城主となった初代の成瀬正成とは・・・
初代成瀬正成  永禄10年(1567)、三河に成瀬正一の嫡男として生まれました。幼名を小吉といい、幼年時代から徳川家康に小姓として仕え、天正12年(1584)小牧長久手の戦いで初陣。その後功績をあげ、家康に信任された側近の一人となりました。慶長15年(1610)、家康の命により家康の九男である義直の補佐役を仰せつけられました。慶長17年(1612)に犬山城主平岩親吉が逝去してから不在となっていた犬山城を元和3年(1617)に将軍徳川秀忠より成瀬氏が拝領。寛永2年(1625)1月17日に病没。
成瀬家犬山城主初代正成の肖像
(白林寺所蔵)
犬山城と成瀬氏
 徳川家康9男義直が尾張藩主となり、義直の尾張入りに際してもりやく(傅役)の成瀬正成が3万5000石で犬山城主となって以後、成瀬氏は、2代正虎(寛永2−万治2)・3代正親(万治2−元禄16)・4代正幸(元禄16−享保17)・5代正泰(享保17−明和5)・6代正典(明和5−文化6)・7代正寿(文化6−天保9)・8代正住(天保9−安政4)・9代正肥(安政4−明治2)と犬山城主を世襲するとともに、代々尾張藩の筆頭家老を勤めました。
 なお、近代以降は、明治2年(1869)版籍奉還に際しては、9代正肥が犬山藩知事に任ぜられ、犬山「藩」が公的に成立しましたが、その後の明治4年には廃藩置県により廃城が決定し、成瀬氏の犬山城主に終止符がうたれました。
 しかし、明治24年(1891)濃尾大震災により天守と西面北端の付櫓や城門の一部が倒壊すると、その修理に際して城は再び旧犬山藩主正肥に譲与され、以降10代正雄(明治36―昭和24)、11代正勝(昭和24−48)、12代正俊(昭和48−)と、2004年3月まで成瀬家が代々犬山城を所有してきました。
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