所蔵資料
所蔵資料のあらまし
白帝文庫では、国宝 犬山城天守と、犬山城主成瀬家に伝来した武器・武具、絵画、工芸品、書籍、絵図、古文書などを所蔵しています。
武具には、具足、陣羽織などの衣類、旗、馬具などがあり、成瀬正成(初代)・成瀬正虎(二代)など初期の城主と成瀬正肥(九代)のものが多く伝えられています。初期については将軍や尾張藩主からの拝領品、合戦での由緒をもつものが中心です。
絵画では、長篠・長久手合戦図の屏風をはじめ、成瀬正泰(五代)・成瀬正典(六代)の作品も数多く残されています。
絵図・古文書は合わせて約5000点があります。成瀬家の財政や領地支配に関するものはほとんど含まれていませんが、成瀬家と幕府・尾張藩との応接を記録した史料や、歴代城主の伝記編さんのもととなった将軍の御内書・老中奉書・官職叙任の口宣案、犬山城修復を幕府へ願い出た際の絵図の控えや関連の文書などがまとまって残されています。
おもな所蔵資料
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短刀 銘 左安吉作 正平十二年二月日
重要文化財 正平12年(1357) 刃長29.2㎝ 反りわずか
平造、三つ棟、小板目がよくつんで、地沸が細かく立ち、棒映りが立つ。刃文は浅い小のたれに小互の目乱れ足入り、匂い口冴え、突き上げて強く返る帽子など安吉の作風がよく表れています。刀樋の内に剣の浮彫があり、その下に三鈷杵を毛彫して三鈷柄剣を表現しています。
安吉は左文字派の祖、左(大左)の子で、名を左衛門三郎といい筑前と長州で鍛刀したと伝えられます。
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長久手合戦図
犬山市指定有形文化財
天正12年(1584)、徳川家康・織田信雄と羽柴秀吉の間で天下の覇権をかけた合戦が行われました。本図は4月9日の長久手方面における決戦を描いています。
成瀬正成(のちの犬山成瀬家初代)は初陣で家康の馬廻りの一人として出陣しました。第1扇上部の馬上姿は家臣の鈴木彦左衛門を従えて敵に突進する場面。第3扇下部には敵の首を挙げる姿が描かれています。
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長篠合戦図
犬山市指定有形文化財
天正3年(1575)5月21日、設楽原(新城市)において織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼軍の決戦が行われました。1扇に長篠城と鳶ヶ巣山砦の攻防戦を描き、画面右側の2扇、3扇は進撃する武田軍を描いています。織田・徳川軍は馬防柵を立て、鉄砲隊を前面に出して、突撃を阻止しました。画面左側が織田・徳川軍の配置です。成瀬正一(成瀬正成の父)は4扇の馬防柵前に鉢巻姿で描かれています。
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銀箔押白糸菱綴二枚胴具足
銀箔押白糸菱綴二枚胴具足
犬山城主成瀬家伝来の具足で、平成26年に寄贈を受け、令和3年度に修復しました。
兜は天辺が尖った突盔形の型式で、12枚の鉄板からなる鉢に銀箔押の和紙を用いて張懸けとし、眉庇は鋭利で力強い打眉と見上げ皺を表現しています。
胴は伊予札板を横矧ぎにした二枚胴です。厚い鉄地を用いており、前胴と後胴に強度を試した窪みが残っています。銀箔押瓢籠手と鉄黒漆塗五本篠の臑当、佩楯も残されています。
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黒漆菊桐紋蒔絵鎧櫃
黒漆菊桐紋蒔絵鎧櫃
愛知県指定有形文化財
天正12年(1584)の小牧・長久手合戦で羽柴秀吉が犬山城に入城したとき持参したと伝わります。笈の形式で全体を黒漆塗とし、絵梨子地をまじえた金の平蒔絵で菊紋と五七桐紋を散らす高台寺蒔絵の手法です。菊花の表現は変化に富み、桐の葉の一部には虫食い穴を描き、大小の菊桐紋をリズミカルかつバランスよく配置しています。
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黒漆菊桐紋蒔絵風呂道具のうち風呂桶
黒漆菊桐紋蒔絵風呂道具のうち風呂桶
愛知県指定有形文化財
天正12年(1584)の小牧・長久手合戦のとき、羽柴秀吉が犬山で使用した風呂道具という伝承があります。風呂桶のほかに桶・手桶・たらい・柄杓・水漉しの諸道具が付属しています。内外ともに黒漆が厚く塗られ、平蒔絵で菊桐紋が施されています。漆塗りで蒔絵を施した豪華な風呂道具は他の大名家にも残っていない稀有なものです。
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虎繍陣羽織
虎繍陣羽織
生地には鉄媒染で焦茶色に染めた羅背板を用いており、背中一面に力強い虎を刺繍しています。襟や袖ぐりには太い撚り金糸を鮑結びや蝶結びにした細やかな飾りをあしらっています。箱書から徳川家光(三代将軍)から徳川光友(二代尾張藩主)が拝領したのち、成瀬正親(三代犬山城主)へ下賜されたものです。
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成瀬正成・竹腰正信連署状
成瀬正成・竹腰正信連署状
元和4年(1618)
元和5年に、尾張藩は岐阜町(現在の岐阜市)を含めて美濃国内に5万石の領地の加増を受けました。この書状はおそらく前年のもので、尾張藩国奉行の藤田民部にあてて加増のことを知らせ、「内々にその心得をするように」と述べています。日付の下にある「成隼人正」が成瀬正成、「竹山城守」は同じく尾張藩付家老であった竹腰正信です。
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徳川義直書状 成瀬正虎あて
徳川義直書状 成瀬正虎あて
寛永8年(1631)
将軍徳川秀忠の小姓として経歴をスタートした二代成瀬正虎は、尾張藩付家老となってのちも秀忠と深いつながりがあり、寛永8年に秀忠が体調を崩すと、毎日のように江戸城に病状を見舞いました。この書状は、国元にいた尾張藩主徳川義直が、秀忠の状態を伝える正虎からの書状を受け取った返書で、正虎をねぎらい、秀忠の病状が安定していることを喜んでいます。
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犬山藩知事御朱章
犬山藩知事御朱章
明治2年(1869)
九代城主の成瀬正肥は明治元年正月に犬山藩主となり、尾張藩から独立しました。しかし薩摩藩などの動きにならい、翌年2月に版籍奉還を願い出て、6月20日に犬山藩知事に任じられます。これはそのときの辞令で、太政官の朱印が押されています。
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尾張国犬山城絵図
尾張国犬山城絵図
寛文8年(1688)
寛文5年・同7年に破損した石垣の修復を幕府に願い出た絵図の控え図です。大手門より北側の城内を描き、天守や櫓などは立体的で形状が分かります。松之丸はこの図では「二ノ丸」とされ、本丸左下の空白の区画が樅之丸です。
所蔵資料の修復
今日まで伝わった大切な文化財を未来へと継承していくため、修理・修繕計画に基づいて修復をおこなっています。
昨年度は、九代城主 成瀬正肥が使った具足などを修復しました。
資料利用のご案内
白帝文庫では、所蔵資料の画像貸し出しをおこなっています(有料)。ご希望の方は、下記にお電話でお問い合わせください。
犬山城白帝文庫0568-62-4700